Historyこれまでの歩み
スタックの歴史年表
お断り
記憶に頼って書いているため間違いが多々あるかもしれません。ご容赦下さい。掲載許可がとれていないため名前がイニシャルになっています。スタックPA機材の変遷が中心なので氏名は特に必要ないと思います。想像して楽しんで頂ければ幸いです。
(有)プロサウンド スタック 比屋根 徹
初期の頃のマーク
1975年頃
NH氏、KS氏、KY氏の三者は別々に仕事をしながら趣味で音響機材を揃えていました。時々PAの仕事を受けて副業としていたようです。1975年、共同でやろうということになり音響機材(現金?)を持ち寄って首里に倉庫を借りてサウンド沖縄を立ち上げます。
KY氏は私の高校時代の先輩であり、音の師匠に当たる人です。私はその頃20歳で、東京の専門学校に通っていました。夏休みで帰省したとき、先輩に誘われ遊び気分でサウンド沖縄のバイトをしました。これがPA屋に入るきっかけです。
ALTEC A7
SHURE VOCALMASTER
SANSUI POWERAMP BA-5000
SONY POWERAMP
YAMAHA PM180 ETC.
家庭用のオーディオシステム(SANSUI BA-5000等)をPAに流用していて機材の殆どが裸でした。
ピンプラグでの結線が多く、変換コードの接触不良やケーブル不足で音が出るまで時間がかかり大変でした。スピーカーに至ってはラグ端子にサキバラ接続が普通です。
先輩方はこれではイカンとマイクからスピーカーまでをキャノンで統一しようと機材を改造しているのを良く見かけました。その甲斐あって音はスムーズに出るようになりました。
60w程度の許容入力しかないALTEC/A7,4セットで大ホールや野外のロックをやった時代でした。本番中アンプのサーマルプロテクトが付いて途切れたり、本番が終わったらスピーカーが何本か鳴っていないのはしょっちゅうでした。
YAMAHA PM-700 12CH、ROLAND RE-201 ETC.
この頃の沖縄にはPA屋さんとして主に二社が存在していました。
サウンド沖縄 ALTEC派
ALTEC A7,SANSUI,SONY
サウンドハウスアップル JBL派 4550,4560,2441 BGW、ETC.
オーディオマニアの発展型がサウンド沖縄で、ロックバンド指向のアップルかという感じでしょうか。
アップル代表のYA氏はグローバル感覚に猛た人物で、沖縄の音響業界に新型機種を紹介し続けていきます。この頃、ライブ仕事は月に4本あるか無いかの状況です。仕事を取り合った良いライバル同士でした。
やがてサウンド沖縄に転機がきます。音響を必要とするイベントが増えだしてメンバーの生業に影響が出るようになりました。話し合いがもたれ会社設立へ進み始めます。
1973年11月、有限会社サウンド沖縄が宜野湾市大山に設立され、二名の出資者と社員一名でスタートしました。因みに社員の第一号が私です(出資はしてません)。不規則な就業時間とライブの興奮にどっぷり浸かってしまった私は抜け出られない体になってしまっていました。
そして一年後、YM氏が出資者として参加します。この時の増資でメインスピーカーはALTECからJBLに転身していきます。やはりロックにはパワーです。
58号線沿い大山倉庫前で機材集合写真、外国芸品はとなりの台湾家具屋さんの看板です
JBL 4550
K-145,4560,2220B,2441,2482,2405
AMCRON PSA2
KO-ON 16CH
YAMAHA M-1516
超超ロング4トン、本土で家具運送に使用していたトラックらしい
野外のロックコンサートで機材をかき集めなくて良くなると勘違いした一瞬でした。人間は一度大きな音を聞くとそれが当たり前になり、パワーにはキリが無いことを今は悟っています。この頃に採用されたサウンド沖縄のロゴマークは良いデザインでした。
恩納村山田温泉ホテルでのロックコンサート、手作り感が懐かしい
オリジナルコンソールの活躍、18インで済んだ時代
上のALTECホーンはツィーター帯域に使用
紫の本土デビューで沖縄のロックが脚光を浴びてくるようになりました。
沖縄の人も刺激され米兵相手だったライブハウスに地元の人が来るようになります。ミュージシャンにはVOCALアンプの時代ではないという意識が出始めました。
楽器をミキサーに入れてバランスをとろう、結果チャンネルが多くなるとミキサーマンも必要になってくるのは当然の成り行きでした。
県内でPAが職業として歩み始めたようにかんじました。本土では既に数社が立ち上がっていたと思います。YAMAHA のPM-1000が主流のこの頃、これを超える筒井製作所製造のオリジナルコンソールを導入しました。
TUTUI 18CH CONSOLE 18MICIN、4G+1STOUT 6AUX OUT
4グループのコンソールでした。2AUXのみのYAMAHAに比べれば格段の進歩です。納品時はみんなで凄いと感動しました。この卓はコザのライブハウス紫で毎晩活躍していました。しかし、これも困ったことの一つになるとはだれも想像できませんでした。
時効なので言います。良く出来たプランの卓ですがモジュールの設計が甘くオペアンプは良く飛ぶし、バスインピーダンスの問題でレベルの取りにくい卓だったのです。手の掛かるやつでしたが思い入れの多い卓です。先に言いましたが一線で活躍したことも事実です。
1980年コンサートと言えばロックそんな時代
国産PA機材は殆どYAMAHAでした、ピアノは重かったCP-80
仕事が増えて行くに連れ機材の増強に追われる日々が続きました。このため資金繰りは自転車操業だったようです。これを打破するために事業拡大を模索し始め、制作部が出来てコンサート主催もやるようになりました。
SOUNDCLAFT S800 32IN/8G/2ST
このコンソールにも泣かされました。初めて那覇市民会館(ふきのとうコンサート)に持っていった時です。パワーサプライの電流制限回路が働き-15Vが切断されてしまい、全てのLEDが美しく点灯するのです。ところが倉庫に持ち帰ってチェックすると問題無く立ち上がります。
原因は一次側の電圧が105V以上になると過電流が流れ切断されることがわかりました。電源を安定させてから接続すれば問題ないことがわかりリレーで時間差をつけて対応しました。サンクラにはいろんなハプニングがありますがキリがないので止めます。たくさんのオペレーターの方々に迷惑をかけてすみませんでした。
フォローですが、今までのトランス内蔵のミキサーから音の抜けが良くなったと感じたサンクラでした。
機材のトラブル対策に追われていた現場班ですが、経営側ではYM氏が抜けることになります。その後YM氏はアウトプットという音響会社を立ち上げました。
MARTIN
ALTEC 817
MANTALAY HORN
MIDAS24/8G/ST/4AUX
という、イギリス生まれのアメリカ育ちロックシステムを導入していました。MIDASは重量もあり軽量の卓とは違う骨太サウンドを出していたように感じました。新しい機材を羨ましく思ったものです。アウトプットはその後、別名の会社に変わっています。
サウンド沖縄のスタンダードシステム
アップルのYA氏は香港経由でTurbosoundを本土へ輸出?していました。何処へ行ってもターボがあるという時代の始まりです。スピーカーボックスに色がつきました。
コンポーネントタイプの嵩張るシステムからセットのしやすい1ボックスへ変わって行きます。そんな時サウンド沖縄はK1とW1という2WAYハイボックスとローボックスのシステムを中古で買い入れました。色は相変わらず黒です。
これにも泣かされました。ハイはファイバーで軽量化されており便利でしたが、折り返しホーンのローボックスは容積の割には音は飛ばず、スピーカーが飛んでいきました。これを破棄するとき、箱がグラスファイバーなため、処理業者を困らせた記憶があります。
結局ローボックスにJBL4550を復活させ現場をこなしました。JBLは大きいけど無難なシステムだったと今でも思います。
その後、出資者の一人であったKY氏も独立し音響会社を設立しました。
コンポーネントから1ボックスへの過期に登場したW1とK1というスピーカー
JBL4550/MINI50/K-1/2482&2441
1982年
サウンド沖縄も株主として出資し、沖縄ホールサービス(株)が設立されます。
1983年頃
宜野湾市大山の58号線沿いの倉庫から大謝名倉庫・事務所へ移転。
1984年
大謝名事務所に沖縄ホールサービス(株)の事務所が移転してきました。
経営の厳しくなったサウンド沖縄は資金支援も受けるようになります。
城島JAZZ INが始まった頃、82年、豊見城城跡公園で開催されたJAZZコンサート
普天間飛行場の進入路の真下にあった 大謝名倉庫
MARTIN VRS800
いつまでも4550というわけには行かずスピーカーシステムの選定に入りました。候補はTurbosoundとMARTINです。鳴き比べたところMARTINの方が荒々しくロックに向いてパワー感があると判断し決定しました。
1986年
最大の転機になりました。
県内のPA業者の増加で競争が激しくなり本業のPAでも苦しく、制作部も行き詰まり立ち行かない状況になってきました。失業、転職を覚悟したスタッフでした。倒産寸前の頃、支援をしていた沖縄ホールサービス(株)に買収されることになりました。
沖縄ホールサービス(株)音響事業部・プロサウンドスタックの誕生です。
1990年
RAMSA S840H,S840F
サウンド沖縄時代はコンソールをYAMAHA PM100→1000→2000シリーズと使ってきました。
県内でも一現場40ch以上の入力が普通になってきたのでスタックも32ch越え機器導入の検討に入ります。
沖縄コンベンションセンター、仕込みの様子
PM3000が主流のこの頃ラムサが力をいれた800シリーズを出したのでデモ機を送ってもらいました。PM3000に比較するとVCAも付いておらず操作性の劣る製品でしたが音の質感はPM3000を超えており導入を決めました。
このコンソールの基板は国産では一番だと思います。しかし、ランダムにトラブルが発生する癖のあるコンソールです。部品交換や改造を加え2003年現在も使用中です。ご機嫌が悪くなると困るのでこれ以上は止めておきましょう。
沖縄市民会館客席にセットされた
SOUNDCLAFT S800,RAMSA 840H
このトラックも超超ロングである
1991年
宜野湾市大謝名から現在の大山に移転。
沖縄ホールサービス(株)から日本ホールサービス(株)に社名変更。
スタンドスピーカーと言えばBOSE802
この頃のエフェクトラック
APOGEE 3X3
国内では1ボックスタイプのスピーカーはMeyer一色になっていました。
この時既にアップルのYA氏は業界スタンダードとも言える、Meyer MSL3とYAMAHA PM4000を所有しておりそのセンスと実行力は尊敬します。不慮の事故で他界したことを残念に思います。MSL3は現在も県内音響会社でメインとして活躍しています。
MARTINを超えるハイクォリティー1ボックスを検討した時、候補はMeyerとAPOGEE 3X3でした。突っ込んだ時に出てくるMeyerの音に違和感がありAPOGEE 3X3の方が自然だと思いAPOGEEに決めました。常に過去のJBLシステムの音に近いものを選んでいる気がします。
1993年全国植樹祭の本番
久高島から本島へ向かうロング4トン
1998年5月
(有)プロサウンドスタックの設立。
日本ホールサービス(株)の音響事業部から(有)プロサウンドスタックとして独立しました。私は独立以前にスタックから日本ホールサービス(株)へ転属し、技術開発本部セクションでホール音響機器保守点検業務を手がけることになります。
スタックは沖縄サミットを初め県内に於けるビッグイベント・コンサートに携わりました。
2000年
スタックはL-Acoustics社製スピーカーARCSを導入しています。(この時はARCSの良さがわからず、使っているうちに素直で使いやすいスピーカーだとわかりました。)
スタックもやっとフライング開始
2002年6月
指定管理者制度等への流れが原因でホール管理事業主体の日本ホールサービス(株)の業績が悪化、経営固めを目指し私が有限会社プロサウンドスタックの代表取締役に就任しました。
2003年
ARCSに続けてWST理論に基づいたラインアレイスピーカーシステムV-DOSC導入を決定しました。V-DOSCついては別ページで詳細に述べていますのでご覧下さい。
今、最小面積のシステムで遠方へ最高のサウンドを提供出来るスピーカーだと確信して導入を決めました。
沖縄コンベンションセンター、V-DOSCのフライングセット
2003年夏まとめ
今、資料の整理をしておかないと忘れてしまいそうで、自分に関わりのあった機材と会社を紹介しながら此処まできました。
数年後には沖縄音響業界一期生の皆さんが引退にさしかかります。業界のスタートを知らない今の若い人達の参考(肴)になればと思います。
サウンド沖縄は沖縄のPA史を語る時、外せない会社でしょう
サウンド沖縄のメンバー以外にもヴォーカルマスター4本で沖縄市営体育館で大物演歌歌手コンサートのPAをした先輩達がいた事も追記します。
ご意見をお聞かせ下さい。
(2003年)
その後。
機器はデジタル化が進みライブ卓も殆どデジタルに変わりました。スタックもYAMAHA M7CLに始まって現在に至っています。(機材リスト)
アナログ時代の周辺機器が倉庫の片隅に積まれているのを(昭和生まれとしては)もったいないと思いながらも火を入れられずにいます。
関わった会社もかなり変遷し、ONかOFFのデジタル同様無くなった会社もあります。
スタックは2008年に完全独立し、2013年には事務所・倉庫を現在の場所に移し、皆様に支えられて営業を続ける事ができております。
今後共皆様の期待に沿えるよう、スタッフ一同研鑽してまいります。
どうぞ宜しくお願い致します。
(2015年)
宜野湾海浜公園屋外劇場、V-DOSCのグランドスタック